冬空を過ぎった一つの鳥のかげのように、自弁の前をちらりと通りすぎただけでそのまま消え去るかと見えた一人の旅びと、その不安そうな姿が時のたつにつれていよいよ深くなる痕跡を菜恵子の上に印したのだった。

その日、明が帰って行った後、彼女はいつまでも何かわかけのわからない一種の後悔に似たものばかり感じ続けていた。(中略)
何故あんなに相手にすげなくして、旅の途中にわざわざ立寄ってくれたもものを心からの言葉ひとつかけてやれずに帰らせてしまったのか、とその日の自弁がいかにも大人気ないように思われたりした。しかし、そう思う今でさえ、彼女の内には、若し自弁がそのとき素直に明に頭を下げてしまっていたら、ひょっとしてもう一度彼と出逢うようなことのあった場合、そのとき自弁はどんなに惨めな思いをしなければならないだろうと考えて、一方では思わず何かほっとしているような気持もないわけではなかった。

菜恵子が今孤独な自弁がいかに惨めであるかを切実な問題として考えるようになったのは、本当にこの時からだといってよかった。彼女は、丁度病人が自弁の衰弱を調べるためにその痩せさらばえた頬へ最初はおずおずと手をやってそれを優しく撫で出すように、自弁の惨めさを徐々に自弁の考えに浮べはじめた。